出典:法句経我すら我のものでないのに いかに 子と財といえども 我がものといえようか
二言目には、わしがおれがといいたいところだが、わしがおれがと頑張るだけの、確かなものを私たちは持っているだろうか。
心も、その時その時のつごうで、ころころかわってゆくし、達者だ達者だと自慢している健康も、いつまでも続くものではない。まだまだおれの目の黒いうちはと力んでみても、その目が白くなるのも、そう遠いことではない。そんな不確かな私たちが、わしがおれがと頑張っていること自体、どこか間違っているのではあるまいか。頑張っている足元が、すでに崩れているのであるから。
「親亀のせなかに子亀をのせて、子亀のせなかに孫亀のせて、親亀こけたら、子亀 孫亀 みなこけた」という俗揺があるが、これを夜店の見世ものと笑ってはすまされない。やがては崩れるものを、あてにしたのみにしている私たちの生き方と、すこしもかわるものではないからである。
崩れぬ確かなものを「よりどころ」にして生きてこそ、私自身の人生を全うする道がひらかれる。どのようなことがあっても、かわることなく私の人生を支えてくださる確かなものを、親鸞聖人は『まこと』といわれた。この『まこと』に遭った時、わしがおれがの「我」がくだかれて、「おかげさま」でと、つごうのよいことも悪いことも、ともにいただいて生きる人生が、めぐまれるのである。