現代は、黙することの意味や、憎しみを克服することが不可能なことや、完全な平和などは永遠に来ないことを教えない。
曽野 綾子
昭和27年、入寺してから50年が過ぎた。過ぎてしまえばまたたく間のようでもあるが、長い年月でもあった。思い出すことといえば、それはなんといっても多くの門徒や同行さんとの出会いである。しかしその大方は先立って往生された。なかでも、よく寺参りをされ、共に聴聞した人は、その姿、その顔、その声さえも鮮明に覚えていて、目をつぶれば今もありありと見えてくる。それは、親鸞さまもおっしゃるように「よき親友(とも)」だからにちがいない。だからいつまでも忘れられないのである。
遊び友達や、耳ざわりのよいことを言い合う仲間は、たくさんいるかもしれないが、親鸞さまを中にして、生き死にや老いと病のむごさを、つくろわず飾らずぶつけあえる親友(とも)が、はたしているであろうか。それは、親鸞さまを中にした親友の仲にしかいない。私たちはみなその仲間なのである。
共にぐちろう。はずかしがることはない。仏さまはとうにご承知なのである。
* 匆々…あわただしく時の過ぎ行くさま