出典:五木寛之「大河の一滴」ぼくらは光と影の両方に生きているのです。
日とそして夜と、その両方にいきている。寒さと暑さのなかに生きている。
こういうふうに考えると、その片方だけで、ひとつの車輪だけで走ってゆこうとする危険さを、いまあらためて感じざるをえません。
親鸞上人のみ教えの一番大切な点は、どのような罪深いものも、阿弥陀如来の本願を信ずれば即座にお救いにあずかるという信心正因のいわれを、あきらかにしてくださったことです。本願を信ずるということは、阿弥陀如来が「わたしをたのみ、わたしの名を称えなさい。そなたがこの世に生きているかぎり護りつづけ、いのちが終われば浄土へ迎えとってかならず清らかなさとりの身になします」のおおせを、疑いなく聞きいれて、阿弥陀如来のおはからいにおまかせすることです。
聖人は信心を「たのむ」とも「まかせる」ともいう意味でつかわれています。
そこで、阿弥陀如来の本願に、「われをたのめ、必ず救う」とおおせられているのは、そなたの罪もさわりも、生ける時も老いゆく時も、病める時も死に行く時も、そなたの人生すべてを私にまかせなさい、必ず救いとげますとおおせられているのです。そのおおせのままに如来におまかせする時、ただちにお救いにあずかるわけで、聖人はそのことを「信心さだまるとき往生またさだまるなり」とおおせられたのです。
このように信心ひとつで救われることを信心正因といい、そのうえで念仏するのは「おたすけいただいてありがとうございます」と、お礼を申しあげていることですから、これを仏恩報謝の念仏といわれたのです。