出典:自然法爾章よしあしの文字をもしらぬひとは みな まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほはおほそらごとのかたちなり
「よしあしの・・・・」
これは親鸞聖人の晩年88歳の述懐である。当時(800年前)を想像するに、文字が書けたり読めたりできる人はごく一部の人に限られ、大多数は善や悪は日頃口にはしても、その文字さえ知らぬ人たちであったろうと思われる。実は、聖人を慕い集った人たちのほとんどが、こうした人たちであった。ちょっとしたうれしさに有頂天になり、少し風向きが変わると愚痴をこぼし、惚れたはれたといっては愛憎の波風にもてあそばれ、自我をむき出してはバカ丸出しの喧嘩もする。およそ、善悪わけしりげな人たちにすれば、まことに愚かでいやしむべき人たちに見えたであろう。
ところが、聖人にはこの人たちこそ自己をかざらぬ人情厚い人、いや、かえって仏心を素直にいただくことのできる「まことのこころ」の人とうつり、この人こそ終世の友同行と親しまれた。むしろ、いかにも人世の表裏をも知りつくしたげに、世間や人を善悪二色に評論する人たちを、仏心をいただくことのむつかしい「おほそらごと」の人と見て、なるべく遠ざかられた。
なんとも不思議な聖人のまなざしである。これは、同じ愚かさの大地の上に立つ者のみが、自覚できるまなざしの不思議さといえまいか。思えば去年は、人間の愚かさがもろにむき出された年であったように思える。さて今年は?