人は生きてきたように老い 生きてきたように死ぬものである
葬式無用 弔問供物 固辞すること 生者は 死者の為に 煩わさるべからず
これは梅原竜三郎画伯(97)の、かねてからの遺言であったという。九年前に艶子夫人をなくされた時にも、誰にも知らせずひっそりと荼毘(火葬)されただけだった。
葬式無用論は今にはじまったことではない。
「某親鸞閉眼(死)せば、加茂川にいれて魚にあたうべし」(改邪抄)とは、親鸞聖人の遺言と伝えられ、いわば聖人の葬式無用論である。
遠い昔から、私達は人生のふし目ふし目を通過するたびに、初参式、誕生祝にはじまって入学式、卒業式、成人式、入社式、結婚式、還暦の祝……など、一つの儀式を重んじてきた。葬式はいわば人生最後の儀式である。死んでゆく本人はどうであれ、残された家族が、日頃お世話になった友人知己に、お別れとお礼の機会をと考えるのも、また意味のあることである。
問題はそれが本ものの葬式になっているかどうかである。画伯が、葬式をしないという葬式を望まれたのは、生涯本ものだけを追求されてきた目に、見せかけの葬式があまりに多かったからであろう。年々華美になってゆく冠婚葬祭に対しての、そのあり方を問うきびしい警告といただこう。
仏法は、なによりも信心を先とすることを忘れてはならぬ。