出典:菊村紀彦「蓮如」乱世というなら、現代もまた乱世である。
民衆は決して司政者を信頼していない。
よるべのないことは蓮如の頃と少しもかわっていない。
ただおおきくかわっているのは、人間が信仰心を喪失したことである。
……といって、人間の世界から死が遠ざかったのでは決してない。
むしろ毎日のように公害や交通戦争が襲いかかっている。
蓮如上人は、信心をうるにはどうしたらよいかということについて、つぎのようにおっしゃっています。信心をうるということは、阿弥陀仏のお誓いのこころを聞きうけることですが、その誓いのこころとは、南無阿弥陀仏の六字のみ名の中に、完全にしあがっているから、南無阿弥陀仏のいわれを心得たらよいといわれています。
南無阿弥陀仏とは、インドの言葉を音写したもので、南無は帰命翻訳され、仏さまの勅命(仰せ)に帰順(したがう)するということで、仏の仰せにしたがいおまかせするという信心をあらわします。そのように仰せにしたがいまかせることを、「タノム」ともいい、南無とは、阿弥陀仏をたのむことであるともいわれます。
阿弥陀仏とは、無量寿仏とも無量光仏とも訳され、はかり知れない智慧と慈悲のいのちをもって、すべての人を救いたもう仏さまという意味です。蓮如上人はこれを要約して、オサメ、タスケ、スクウというこころであるといわれました。要するに、南無阿弥陀仏のいわれは、タノメ、スクウの、み仏の私にむかってのよび声であります。このたのみがたい世の中に、恥じ知らずの愚かな生き方しかできぬこの私に、それでも捨てられずと呼びかけたもうとは、なんとせつない親心でありましょうか。この親との二人づれの日ぐらしが念仏生活なのです。