真なるものは仮なるものを吸収し 仮なるものは真なるものを疎外する
今いちばん忘れられているもの、狂乱といい、激動といわれる現今、最も軽んぜられてきたのは「人間そのものを考える」ということではなかろうか。
いかなる文明も、どんなにすぐれた社会のしくみも、それを支える柱は人間である。しかし、その柱がくさっていてどうして立派な家が建てられようか。
「人間を考える」ということは、つまるところ『私一人を考える』ことに外ならぬ。私を離れて人間はいないからである。「自己を考える」ということは、ごまかすことなく自己を問いつめるというのである。
現代人の多くの人生観は、老若男女を問わず、楽しめるうちに楽しもうということらしい。にもかかわらず、豊かな満足感がえられているかといえば、どうもそうでないらしい。
人間は決して欲望の満足だけを求めて生きているのではない。人間は、生きていることそのこと自体に意味を求めてやまぬものである。青年期に「何のために生きているのか」老いては「何のために生きて来たのか」という問が自らの胸に起こって来るのは、生が生、自らの意味を問うているからだといえよう。この問に正しく答える道をとざされると、人間は深い生の疑惑におちいって、自殺すらも真剣に考えるようになる。ところが現代文明はそれに答えるものをもちあわせていない。ただ物質的な豊かさを提供するばかりである。
「自己を考える」その道を、あざやかに示して下さる人が親鸞上人ではないのか。