人間の行為には必ず期待がある。なんの期待もなくなされる行為があるとすれば、それはよほどの例というほかない。
宗教信仰も一つの行為と見る時、それによせる期待は何であろうか。病気をなおしたい。金をもうけたい。災難や不幸から身をまもりたい。つまり少しでも自分の人生から苦労をなくしたい。こんな期待が信仰のうらがわにひそんでいないだろうか。
もしそうだとすれば大変な誤りである。なぜなら、人間が生きるということは、それ自体苦しいことだからである。暑ければ暑いで、寒ければ寒くて、有れば有るで、無ければ無いで、生きることに苦労のない日が一日もないことを忘れてはならぬ。
そこで、神仏に祈って、自分だけ苦労なしにしてもらうことはまったく虫のよすぎる相談であり、だいいち、それは人間として生きる正しい姿勢ではない。
人間として生きるからは、苦労は覚悟のうえでなくてはならぬ。問題は、その苦労から逃げ出さず、苦悩とがっぷり四つにくんで、苦悩にあうたびに、それをのりこえてゆく人間に私を改造してゆくことである。
仏その道を示すものが仏教である。