出典:歎異抄煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにておはします。
どんな人でも、どんな宅(いえ)でも、心配ごとの火種の二つや三つはあるものだ。灰の中に埋もれて表面化はしていないが、なにかの拍子に手のつけられない大火になることがある。
火宅とはよくいったものである。小火ですむうちはいいが、ひとたび火勢が強まると、親子、夫婦の人間関係をはじめ、大げさに言えば国際関係すらこわれて、憎しみや恨みを増幅する。そしてその火種はといえば、おおかたが「私が正しい」の一語につきるようだ。
いったい人間の思うことなすこと、それが個人であれ集団であれ、ことごとく「そらごと、たはごと」と言い切れた人はそう多くはない。よくよく考えてみれば「わたしが正しい」も、保身のためではないのか。保身のためにはなりふりはかまっておれぬ。友を裏切り敵と手をとることなど朝飯前のことだ。政党や離合集散などもののかずではない。天地をつらぬく不変の「まこと」など人間の業の中にはないと、800年の昔、親鸞さまはそのさまを目の前に見てこられたのである。
愛とか平和とか福祉とか耳障りのいいことばを聞きなれた者には、残酷にきこえるかもしれぬが、時にはこんなことばにゾクッとするのもいい。うぬぼれぬためにも・・・。
報恩講はそんな親鸞さまのことばにふれるつどいであります。お待ちしております。