道しるべ

仏法は ただ聴聞にきわまるなり

蓮如上人

「聞く」ということ

仕事ひとすじ何十年もはげみつづけた、たとえば「人間国宝」と呼ばれる人は、こぞって、古来の名品といわれる作品を目の前にして、その仕事ぶりにひたすら聞くと語っておられます。聞くということは学ぶということです。農業ひとすじ「農業日本一」にかがやいた人は,毎朝,稲に聞きに行くとおっしゃっています。聞くということは、そのものの訴えをうけとめるということでもあります。

それぞれの道をきわめていくと、最後には「おれが作っている」という自負心はきえて、私に呼びかけてくる、いわば「いのちの声」ともいえる、そのものの願いがきえて、さらに新しい境地に入れるといわれるのです。

浄土真宗における「聞法」、つまり阿弥陀仏の法(みのり)を聞くのも同じことです。お寺でお説教を聞いても、初めから分かる人はいません。聞いてもたいていはうわの空でしょう。しかし、何度も何度も聞かせていただくうちに、しぶ柿が太陽に照らされてすこしずつ赤く、あまく熟していくように、仏説(仏さまのおおせ)が、するりと素直に受け入れられるようになってきます。初めはむつかしく、抵抗さえも感じていた私が、その一言一言に、今までと違ったひびきを感じるようになってきます。ひたすらお聞かせにあずかるうちに、新しい私がそだてられてゆくからです。

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