道しるべ

無いものを欲しがらんで 有るものをよろこばしてもらおうのう

がんを告げる

出典:朝日新聞 今日の問題

レーガン大統領が、がんを『素直に通告』された。がんを本人に告げるべきか、告げるなら、いつ、どんなふうに、という深刻な問題を改めて思う。

中学の同級生で、合唱指揮者のMが発病したのは去年の九月である。運転しているマイカーが、左へ左へ寄っていく。左手で茶わんをもつと、こぼれてしまう。病院で調べると、脳に転移性のがんが四個できていた。手術不能で、数ヶ月の寿命とわかった。「軽い脳こうそく」といわれて退院したとき、本人は翌年一月の演奏会へ情熱をもやしていた。しかし、当日までおそらくもたないだろう。退院した夜、奥さんは彼に事実を告げた。病院で教えられた通りを。

米国と違い、日本では多くの場合周囲がみんな知っている。本人だけが知らない。疑心暗鬼の中で、本人は苦痛と不安と、何よりも孤独にさいなまれる。人生でいちばん大事なことについて、彼をだましていいだろうか。その思いが奥さんを踏みきらせたという。黙って聞いていたMは言ったそうだ。「よかったよ。知らなかったら大変だった。よく教えてくれた。」その時の、その後のMの胸中は想像をこえる。そして夫妻は話しあった。

人間はみな死ぬ。あす生きている保証は何もないのに、みんなのほほんと生きている。とすれば、状況は同じじゃないか。残る日々を全力をつくして生きよう。だが、特別な目で見られぬよう、他人にはいうまい………。

脳圧を下げる薬のおかげで、Mは元気そうに見えた。週二回、いつものように合唱を指導した。だが十一月、左手が全くきかなくなり、楽譜と音が合わなくなる。Mは後輩に演奏会を託した。やがて昏睡におちいり、息をひきとったのは一月二十四日だった。がんを知らされて間もなく、Mは一人娘Sちゃんへ遺言を書いた。「お母さんは本当に立派な人です。私ががんと分かってからのお母さんを、とくに尊敬してきました………」

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