道しるべ

金は 貯めておいてゆく

罪は 作ってもってゆく

教は 聞かでおちてゆく

盆におもう

一年の間には、何人かの無心者がくる。昔は、はずかしそうに食べものを乞うたものだが、この頃は身なりもととのい、堂々と現金を要求する。定期的にくる人の中に、一人だけ「ほどこしをおねがいします」という人がくる。ことわりのきかぬのが、ほどこしである。

「ほどこし」は、つまり、「布施」ということである。布施であるから、金額にきまりはない。さし出すと、だまって受けとり、本堂に向かって、形ばかりではあるが、ぺこんと頭を下げてかえってゆく。

盆、ウラボンの語源は、ウランバナ、意味は「さかさずり」といい、餓鬼道という地獄の苦しさをあらわしたものといわれる。餓鬼の世界におちて苦しんでいる母を救うために、目連尊者がお釈迦さまにねがい、雨期の修行に集まった多くの仏弟子に、食事をほどこし、その布施の功徳をもって、母を餓鬼より救ったという故事が、盆の仏事のおこりと伝えられている。生前、ものおしみばかりして、なに一つほどこしをしなかったははの行為が、餓鬼道におちた原因といましめるのである。

ほどこしは、なにも金品にかぎったものではない。やさしいことばを使うのは、ことばのほどこし『言辞施』。和やかな顔で接するのは、顔のほどこし『顔施』。席をゆずるのは席のほどこし『床座施』である。法事に招かれて経を読むのは法施、帰りにいただくのも布施である。

布施はもともと、布施行という修行の一つで、自分のものおしみの心を断つためにするもので、他人のためにする行ではない。ここのところが一番大事なところで、貸し借りや、損得の心が少しでもまじると、ほどこしにはならない。ほどこした自分と、ほどこした物と、相手の三つを全部忘れてこそ、ほんとうの布施がなりたつのである。ほどこしのむつかしさが、実はここにある。

私たちは、みなおしなべて「けち」である。しんそこ「ケチ」である。ことばをおしみ、顔にかどをたて、席を一人じめしたがる。どうせこの世を出てゆく時は、持ってゆけるものはなに一つとてない。知ってはいるが、わかってはいない。

少しずつでもいい。ぼつぼつと、ほどこしのまねごとをしてゆきたい。たどりつくところは、餓鬼か、畜生か、修羅か、それともお浄土か。人生総決算の日も、そう先のことではない。

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