道しるべ

みんな老後のことは考えているのに その先のことはいつも先おくりしている

生死の一大事がまっているのに…

盆のこころ

私たちは、お盆になると先祖を偲んで墓参りをする。しかし、私自身も無常の風にさそわれて、明日をも知れぬ身であることを、どれほど自覚しているだろうか。行く先が案じられるのは、ご先祖ではなく無常のまっただ中を生きている私の方である。

しかし、私たちはその現実から目をそらし、いつも眼前の「欲望の充足」だけにエネルギーの大半を注いでいる。たしかにこの世の幸福を求めるのも、この世にある限り当然のことではあるが、その多くは財産や権力、名声といった類のもので、遠からぬうちに消えてゆくもの、去ってゆくもので、死にのぞんだ一大事の時には、なんの役にもたたぬ。何よりもまず先に求めるべきは、生と死を安じてゆだねることのできる、不変の仏心をいただくことだ。

考えてみると、私たちは仏さまに手を合わせることはあっても、仏さまの心を聞こうとすることはしない。

お釈迦さまは「八万四千」といわれる多くの法を説かれたが、お釈迦さまの入滅から遠く時をへだてた今の時代、そのみ教えにかないうる人は一人もいない。それどころか、迷いを迷いとも知らず、み教えから逃げまわっているのではないか。こんな私を、かねてより見抜かれた仏さまがいましたとは……「汝是凡夫」(お前は見事な凡夫だなあ!)と見抜いた仏がいましたのである。わが家におむかえしている阿弥陀仏が、その仏さまなのである。

この仏は私をすっかり見抜いた上で、「必ずすくう」と誓われた。私の過去、現在、未来、の生きよう有りようを一切問わず、自らの願いにかけて「決して捨てず」と約束された。この仏心、仏願のいわれを聴聞して、今からすでに、仏となるべき身に定められていることに、疑いなく安心できたのを信心が定まるとも、信心をいただくともいうのである。この安心、喜びのうえからはげむこの世の仕事は、すべてが御礼報謝のいとなみとなる。

したがって、浄土真宗の盆は、亡き人を通じて命の無常を思い、無常の世であればこそ、ゆるぎのないまことに先ず目覚めようと、仏法聴聞にいそしむ機縁にしてこそ、その意味がある。まずはことしの盆は、あらためて自分自身のいのちの行方を考える機縁にしたい。迷っているのはご先祖ではなく、この私なのだから。

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