道しるべ

自力称名の人はみな 如来の本願進ぜねば 疑う罪の深きゆえ 七宝の獄にぞいましむる

疑 う

上の御和讃は、疑うことは罪であるといっています。親鸞聖人の言われる「罪」となる疑いとは、疑ってばかりいて疑いを晴らさないことを言われているのです。「疑う」ではなくて、疑って疑ってその疑いを解決しなさい、と教えられているのです。

たとえば私達の身の回りで言うと、なぜお葬式では塩をまくのか、車になぜお守りをつけるのか。疑えばいろんなことがあるのです。それを疑うことなく当然のこととしていないでしょうか?

私達は何のために生きているのか、怒りや、ねたみ、愚痴はつきないのか。なぜ人生は苦しいのか、なぜ人は死ぬのか、考えたことがあったでしょうか。「そんなの、あたりまえ」「考えてもしかたがない」と疑いも晴らさずにいるのではないのでしょうか。これを親鸞聖人は罪だと言われるのです。「疑う罪の深きゆえ 七宝の獄にぞいましむる」とは、疑いの晴れないことを牢獄にたとえているのです。

もし私が牢獄に入れられたらどう思うでしょうか。早くそこから出たいはずです。しかしその牢獄が七宝の宝で出来ているからその中であぐらを組んでいるのです。七宝にばかり気をとられてはいけませんよ。真実を聞き、真実に照らされて、一つずつ疑いを晴らしていきましょう。

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