ともすると 背のびがしたくなる私に
ともすると 何かを欲しがりたくなる私に
そして何かあると心がこわれそうになる私に
あゆみが止まりそうになる私に
「止まらないように歩きなさい止まると歩き出すのがたいへんだよと……」語りかける何かがある
出典:大乗 八月号戦後のどん底時代から四十年。この間に私たちが手に入れたものは沢山ある。第一に自由を手にしたこと、次に物の豊かな国になったこと、更には世界一の長寿国になったことなど、いろいろな幸福の種をもてるようになった。
しかし、幸福の種を多くもつことと、幸福そのものを手にすることとは、決して同じことではない。このことが今ようやく、はっきりと見えてきたように思われる。たとえば、昭和の六十年間で急速に長寿国となった。昭和六十年の平均寿命は男子74.84歳、女子84.46歳。ちなもにこの数字を昭和元年ごろのそれとくらべると、男子44.8歳、女子46.5歳である。自由で、物が豊かで、長生きができる。幸せそうで、しかし手ばなしでよろこんでばかりいられない。
先日も友人の医師から、このごろ病院から退院したがらない老人が、だんだんふえているという話しを聞いた。ある老女は、新築の家があり、自動車が四台もあるくらしをしていながら、わが家にいる場所がないといい、病気がよくなっても入院生活をつづけている。なんとわびしい長生きだろうか。
親鸞さまは、「本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき……」とおっしゃっている。「如来の真言の願いにあえない人生は、空しいことで終わってしまうよ」といましめておられるのである。一生働きとおしたあげくに、老後は居場所をうしない、不幸と不満で独りさびしく去っていかねばならないのを、空しすぎるといわれるのである。たしかに、物を豊かにするのは、さしてむつかしいことではない。家族みんなで金もうけにはげめばよい。食べものに恵まれ、医学が発達して,健康管理に気をつければ,命のいれものは長もちするだろう。だが、心を豊かにするには、何をどうすればよいのか、このことを戦後四十年、考えなさすぎていなかっただろうか。
「中老」が「熟年」となり、更に「実年」と名だけかえてみたとて「老い」から逃げられはしない。目覚めのない「老い」は、失ってゆくものにかじりつき、孤独にさいなまれ、死のかげにおびえながら、自らも苦しみ、周囲からはうとんじられる。すなおに耳を開き、そこからほんものの願いが聞こえだしたら、自然に心豊かな道は開ける。九十年、豊かな老いを歩まれた親鸞さまが、いよいよなつかしく偲ばれる。